前回は画像一枚に対し、やたらコメントが長かったので、今回はまとめて三枚。 その内2枚は製造工程上にあるようですが、実は終戦後米軍接収時の「烈風」で零戦の後継機となるはずだった17試艦戦(三菱重工製)です。零戦と同じく堀越二郎氏(この方、一時期私の大学の先生でした。と言っても私が入学する前に退官されましたので、面識は有りませんが・・・・・)の設計によるものです。 誉エンジンの不調に苛まされ試作期間のやたら長い機種となり、終戦直前に三菱製ハー43エンジンを搭載して制式採用にこぎ着けた次第。このため誉エンジンは戦後かなり厳しい批判に晒されました。 誉エンジンの設計者中川良一氏(戦後はプリンス自動車に入社、その後プリンス自動車は日産に吸収合併)は、一時期暴走族の間で流行った日産スカイラインのエンジン設計者でもあります。戦闘機用エンジンの設計者なだけに暴走族の急加・減速などに耐えられるエンジンだったのでしょう。この中川氏、戦後の度重なる誉エンジン批判に対し一切の反論もすることなく、只々黙していました。誉エンジンは、大ベストセラー・エンジン「栄」のメーカである中島飛行機製、中川氏若干27歳の時の設計によるものです。天才設計者中川良一の設計だけに、「大東亜決戦用エンジン」と唱われ陸海軍の指導で今まで掲載したような主要機種に搭載。その反動もあってか、戦後我が国航空解禁後になっても批判は続きました。中川氏にとってさぞかし苦しい戦後だったのでしょう。今でも「誉エンジンは失敗作」との声を聞きますが、烈風の試作作業時には同時期に製作された誉エンジンは既に紫電改に搭載され、特に海軍343空(四国松山に展開、隊司令源田実大佐)では一時期西日本の制空権を奪取する位の活躍を示しています。 航空機製造に関し、欧米模倣期から脱却したのが昭和10年頃、航空自立後5年ほどで欧米製のエンジンを凌駕し得るとは、一寸、虫が良すぎたのかも知れません。機体設計と異なりエンジン設計には内燃機関、特にその金属材料特性と燃焼工学の知識技術の蓄積が必須です。当時の我が国では如何ともし難いものがありました。加えて、終戦直前時の劣悪な製造品質と燃料品質、デリケートな誉には全く不向きな環境でした。 そんなこんなで、「悲劇のエンジン」と云えるでしょう。 三枚目の画像は、海軍陸上爆撃機「銀河」です。
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